2010年12月20日月曜日

Music_Steve Morse_Warren Justin DeMartini_Carlos Santana

スティーヴ・モーズ(Steve Morse, 1954年7月28日 - ) はアメリカ合衆国出身のロック・ギタリスト。
スティーヴ・モーズ(2005年)

オハイオ州ハミルトン生まれ。家族とともにテネシー州に引っ越す。高校時代に最初のバンド、ディキシー・グリットを結成。その後フロリダ州・マイアミ音楽大学にてクラシックとジャズ・ギターを学ぶ。学友にはパット・メセニー、ブルース・ホーンズビー、ジャコ・パストリアスがいた。クラスメートと共に1974年、ジャズ・ロック・バンド、ディキシー・ドレッグスを結成。1975年、自主制作アルバム「グレート・スペクタキュラー」を発表し、カプリコーン・レコードから1978年にアルバム「フリー・フォール」を発売する。バンド名は一時的に「ドレッグス」に改名していた。
1994年、リッチー・ブラックモアを解雇したディープ・パープルから勧誘を受けグループに加入して世界ツアーの後、1996年の「Purpendicular」から全てのアルバムでメンバーと共作している。現在もディープ・パープルのメンバーであり、並行してスティーヴ・モーズ・バンド、ディキシー・ドレッグスでの活動も継続している。
ソロプレイにおいては強力なオルタネイトピッキングとクロマティックスケールを駆使した、繊細でいてアタック感の強いフレーズが特徴。アーティフィシャルハーモニクス(人工ハーモニクス)も多用する。また反復するフレーズを連続させながらフレーズを構築していく「シーケンサー・フレーズ」を多用し、彼のトレードマーク的なものとなっている。


ウォーレン・ジャスティン・デマルティーニ(Warren Justin DeMartini、1963年4月10日 - )は、ロックバンドラットのギタリスト。ニックネームはトーチ(Torch)。ラットは1980年代半ばから後半にかけて人気を得た、ロサンゼルスのグラムメタル・バンドである。
上の兄弟の影響でロックに興味を持ち始めるが、そのことをクラシックピアノを演奏する母と無声映画でピアノ伴奏をしていた祖母にも励まされた。 母から7歳のときギターをもらうが、彼は弾けず、ザ・フーのピート・タウンゼントのステージを見たとき、それを叩き壊してしまう。
ギターについてはラット初期でシャーベル製のカスタムコンポーネントギターを、その後期では日本人ビルダーが製作しているPerformanceブランドなどを使用。最近ではラット時代のペイントと仕様を取り入れたシグネイチャー機がシャーベルから市販されていた。ウェインシャーベルの現在のブランドであるウェインなども使用中である。各モデルのリアポジションに搭載されているピックアップはセイモアダンカンのJB。 アンプはチューブ式のマーシャル、ソルダーノ、ディーゼル等。エフェクターは一時期オーヴァードライヴとしてプロコ社のラットペダルなども使用していた。エコーを得るためにスタジオクオリティのデジタルディレイを使用。


カルロス・サンタナ(Carlos Santana, 1947年7月20日 - )は、メキシコ出身のアメリカ合衆国のギタリスト。自身の名を冠したラテン・ロック・バンド「サンタナ」を1960年代から率い、現在も活動中。
Carlos Santana 2.jpg
東洋哲学に傾倒しており、シュリ・チンモイに帰依している。1973年には、同じくシュリの信奉者であるジョン・マクラフリンとの連名で『魂の兄弟たち』を発表し、『スイング・オブ・デライト』(1980年)でもシュリが作った楽曲を取り上げた(後にシュリ・チンモイ教団からは脱会している)。

2010年12月17日金曜日

Music_SLASH_Nuno Bettencourt_James Hetfield

スラッシュ (Slash, 本名:Saul Hudson, 1965年7月23日 -) は元ガンズ・アンド・ローゼズ、現ヴェルヴェット・リヴォルヴァーのギタリストである。髪型は長いアフロヘアーで、シルクハットが特徴。
スラッシュ(2005年6月18日にオランダ・ナイメーヘンで行われたヴェルヴェット・リヴォルヴァーのコンサートより)
1965年、ロンドン郊外のハムステッドで、白人(イギリス人)の父(Anthony Hudson:プロデューサーで、ニール・ヤングなどのアルバムカバーを手掛ける)と黒人の母(Ola Hudson: ファッションデザイナーで'70年代、ジョン・レノンやダイアナ・ロスの衣装を手掛けた)の間に生まれた。11歳までをイギリスのストーク・オン・トレントで過ごす。
ロサンゼルスに移住。両親が別れ、母親と暮らす。ニコラス・ケイジやレニー・クラヴィッツらを輩出するビバリーヒルズ高校に進学したが、15歳の時から始めたギターに専念するため後に中退した。エリック・クラプトンやジェフ・ベック、レッド・ツェッペリン、ジミ・ヘンドリックス、ローリング・ストーンズ、エアロスミス、ニール・ヤングなどに影響を受ける。
スティーブン・アドラーの祖母が持っていたアコースティック・ギターを借りたのが、ギターを始めたきっかけ(その後譲り受ける)。
ハイスクール時代は、BMXに夢中だった。
当時はテクニカルなプレースタイルが持て囃される時代でもあったが、そんな中にあってブルーズを基調とした、エモーショナルでセンス溢れるギタープレイや暑苦しいルックスが存在感をアピールし、人気を博す。


ヌーノ・ベッテンコート(Nuno Bettencourt, 1966年9月20日 - )は、アメリカのギタリスト、ミュージシャン。
作品が予定どおり発売されないことが多く、発売予定日が延期になること、未定になることなどが通称「ヌーノタイム」と呼ばれる。一方で、ハイセンスな作曲能力、ギターテクニックにより「ミュージシャンズミュージシャン」と呼ぶ声も多い。
その腕を買われてセッション・プレイヤーとしても活動したことがある。特に有名な仕事としてはジャネット・ジャクソンの「Black Cat」への参加があり、1990年のビルボード誌チャート1位獲得に貢献している。
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ファンクの影響を受けていることが大きな特徴であり、エクストリームの楽曲の中でも16ビートを基調としたファンキーな曲が多い。エクストリームは1980年代に登場したLAメタルに分類されることが多いが、そのバンドの中でもエクストリームを特別たらしめている要因の中にヌーノのファンキーさがある。その為、エクストリーム自体が「ファンク・メタル」(レーベル名にも使われた)という新しいカテゴリーに括られる事も多かった。
エドワード・ヴァン・ヘイレンの大ファンであり、大きく影響を受けたことを公言している。エクストリームの初期の楽曲などはヴァン・ヘイレンの影響を垣間見ることができる点で典型的なアメリカン・ハードロックの要素もあるが、アレンジ、楽曲構成などは、こちらもやはり大ファンであることを公言しているクイーンの影響も色濃くある。
ファンキーなリズムを得意とする一方でギターソロなどのテクニックには定評があり、とくにエクストリームの1枚目・2枚目のアルバムでの演奏で日本においてギターヒーローとしての地位を確立する。弦飛び、複数弦にまたがるタッピング奏法などは現在でも高度なテクニックである。同時にプレイの正確性も見逃すことはできない。ライブ時にはギターをとても低く構えるが、ピッキングの音ははっきりと聞き取れる。


ジェイムズ・ヘットフィールド (James Hetfield, 1963年8月3日 - )は、アメリカのギタリスト、ヴォーカリスト、ミュージシャン。イングランドとアイルランド、ドイツの血を引く。
2007年、ウィーンにて
 メタリカの音楽に見られるように、速くて重いメタルの曲や演奏を得意とする。メタリカの曲のリフの多くは彼が作り出したものであり、ギター雑誌などでは「リフマスター」の異名が与えられた。リードはそれほど得意ではないためか、メタリカの曲のソロの多くはカークが担当する。特に、レコーディングにおいては役割分担がはっきりしており、かつてはリズムギターの左右両パートともジェイムズが演奏していた。このことにより、機械的ともいえるほどの正確なバッキングで冷徹さを醸し出す結果になった。


2010年12月15日水曜日

Music_Howard Duane Allman_B. B. King_Chuck Berry

ハワード・デュアン・オールマン(Howard Duane Allman、1946年11月20日 − 1971年10月29日)は、アメリカのミュージシャン、ギタリスト。

フィルモア・イースト出演時のオールマン(1971年)


オールマン・ブラザーズ・バンドのリードギタリストなどとして活動したほか、セッションミュージシャンとしても知られている。キング・カーティスや アレサ・フランクリンなどの作品に参加し、デレク・アンド・ザ・ドミノスでは、ギタリストとして重要な役目を果たしている。
彼のスライドギターによる即興的な演奏は、多くのミュージシャンに多大な影響を与えている。
1971年、バイク事故による内臓の損傷が原因で24歳で夭折。現在はジョージア州メイコンに埋葬されている。約1年後、奇しくもオールマン・ブラザーズ・バンドのベーシスト、ベリー・オークリーもデュアンと同じく事故死した。 同じくオールマン・ブラザーズ・バンドのメンバーだったグレッグ・オールマンは弟。


B.B.キング(B. B. King、本名Riley B. King 、ビー・ビー・キング、1925年9月16日 - )は、アメリカ合衆国のブルースギタリスト、歌手、作曲家。1950年代から現在まで常に第一線で活躍してきたブルース界の巨人。

B.B.キング (2006年ホワイトハウスにて)
1925年9月16日にミシシッピ州北西部のイッタベーナのプランテーションに生まれる。幼少の頃は小作人として働く。その後ギターを手にし、幼くして頭角を現し始める。T-ボーン・ウォーカーやロニー・ジョンソンと言ったギタリストの音楽だけではなく、ゴスペル音楽にも触れていたという。
1943年に州内のインディアノーラに移住し、その3ヵ月後にはテネシー州のメンフィスに移り住む。キングはそこで、いとこのブッカ・ホワイトに教わりながらギター・テクニックを磨いていく。
自らのギターにルシールと名づけている。その由来は、1950年代に遡る。キングがアーカンソー州トゥイストのクラブに出演した際、二人の男性が喧嘩を始めた。彼らは暖房を倒し燃料がこぼれて引火、クラブは大火事となってしまった。
キングと観客は外に避難したが、外に出てからキングは愛用のアコースティック・ギターをクラブに忘れてきてしまった事を思い出し、自らの命の危険を省みずに火の燃え盛る建物に戻り、ギターを救い出した。


チャールズ・エドワード・アンダーソン・ベリー(Charles Edward Anderson Berry、1926年10月18日 - )は、アメリカのミュージシャン、ギタリスト。「Chuck Berry」の愛称で知られる。


チャック・ベリー(2007年、スウェーデン)

リトル・リチャードやジェリー・リー・ルイス、バディ・ホリー等と並びロックンロールの創始者の一人と言われている。特徴的なギターリフを使ったその音楽のスタイルは、後のロックミュージシャン達に多大な影響を与えた。また、社会的メッセージが込められた歌の数々は1950~60年代当時の若い世代の共感を呼んだ。80歳を超えた現在も現役でステージ活動を続けている。
ベリーを敬愛していたジョン・レノンは、「ロックンロールに別の名前を与えるとすれば、それは『チャックベリー』だ」と発言している。

2010年12月13日月曜日

Music_Tom Morello_Gary Moore_Brian May

トム・モレロ(Thomas "Tom" Baptiste Morello、1964年5月30日 - )はアメリカ合衆国のギタリスト。ロックバンド、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン、オーディオスレイヴのメンバー、またはソロプロジェクト、ナイトウォッチマンの活動で知られる。2009年にストリート・スウィーパー・ソーシャル・クラブを結成した。
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ケニアの過激派社会運動組織マウマウ団の一員で後にケニア初の国連代表となった父のンゲセ・ンジョロゲ、高校教師であり公民権運動や検閲反対運動の運動家でもある母のマリー・モレロの間に生まれる。父母の影響で学生時代から左派の立場から社会運動に関わると共に、13歳でレッド・ツェッペリンの影響から音楽に目覚めるが、金欠でエレキギターが買えず腕も上達しなかったため挫折する。
高校進学後、本格的にギターを始め、同級生で後にトゥールのギタリストとなるアダム・ジョーンズらと共に「エレクトリック・シープ」を結成。ヘヴィメタルとパンク・ロックの影響を受けながら自身の音楽性を形成していく。


ゲイリー・ムーア(Robert William Gary Moore, 1952年4月4日 -)はシンガーソングライター・ギタリスト。北アイルランドのベルファストに生まれる。父親は地元で有名なプロモーターでクラブの経営などに携わっていた。
小学生の頃ピアノを習い始めるが教師と合わず挫折。10歳の頃にギターを始める。当初はシャドウズのコピーに明け暮れるが、やがてジェフ・ベック、エリック・クラプトン、リッチー・ブラックモア、さらにジミ・ヘンドリックスなどの影響を受け始める。特にピーター・グリーンからは強い衝撃を受けプロギタリストになる決意を固める。


ゲイリー・ムーア(2007年、ベオグラード)

1968年、交通事故で代わりのメンバーを必要としたベルファストのアマチュア・グループ、ザ・メソッドのギタリストになりダブリンへ。数カ所のギグをこなしている間にダブリンのビートニク・シンガー、ブラッシュ・シールズに誘われスキッド・ロウへ加入。当時のメンバーはブレンダン”ブラッシュ”シールズ、ノエル・ブリッヂマン、フィル・ライノット、そしてムーア。
1979年、『ブラック・ローズ』をリリース。8月のUSツアー途中で脱走、LAにて元ディープ・パープルのグレン・ヒューズとハング・アウト、シン・リジィのサポートをも務めたマーク・ノーシーフらとともにデモンストレィション・テープの制作にかかる。


ブライアン・ハロルド・メイ CBE(Brian Harold May CBE, 1947年7月19日 - )は、イギリスのミュージシャン・天文学者(天体物理学博士)。ロック・バンド、クイーンのギタリスト(自作の曲ではリード・ヴォーカルを取ることも多い)。ミドルセックス州のハンプトン出身。近年はクイーン+ポール・ロジャースの活動に参加している。


ブライアン・メイ(2010年)

インペリアル・カレッジ・ロンドンで学び、大学院では宇宙工学を研究しており、クイーンの活動が軌道に乗るまでは中学校の講師として教鞭を執っていた。その後、音楽活動のために研究を中断していたが、35年後の2007年夏から天体物理学の研究を再開し、スペイン領カナリア諸島の天文台で研究を行って論文を完成、母校インペリアル・カレッジでの審査を通過して博士号を授与されている。
彼のギター「レッド・スペシャル」は特に有名で、彼の知人の家にあった100年以上前の乾燥した暖炉の木材を材料に、エンジニアだった彼の父と自作したオールカスタムギターである。そのギターと後述の独自の機材から奏でられる独特の音色と多重録音による凝ったギターの音像は、当時ロックにも使われ始めていたシンセサイザーの音だとされた事があり、それに反発した初期のクイーンのレコードパッケージに"No Synthesisers were used on this Album(シンセサイザーは使っていない)"と書かれていたことは当時話題となった。

2010年12月11日土曜日

Music_Pete Townshend_Tony Iommi_Lee Ritenour

ピーター・デニス・ブランドフォード・”ピート”・タウンゼント
(Peter Dennis Blandford "Pete" Townshend, 1945年5月19日 - )は、
イギリスのミュージシャン。ザ・フーのギタリストとして最も有名である。身長183cm。



ピート・タウンゼント(2008年)

Pete Townshendは1945年、ロンドンのイーリングで生まれる。父親のクリフはプロのサックス・プレイヤーであり母親のベティは歌手という音楽一家であった。幼年時から音楽に対する関心を示し、アメリカのロックンロールに興味を持った彼は12歳の時に祖母から最初のギターを買ってもらう。後に彼はそのギターを「安物のスペイン製」と語っている。
Pete Townshendは1961年にイーリング・アート・カレッジに入学する。翌年彼は学校の友人ジョン・エントウィッスルと共に最初のバンド、ザ・コンフェデレーツを結成した。それはディキシーランド・ジャズのデュオであり、タウンゼントがバンジョーを弾きエントウィッスルがホーンを演奏した。彼らは間もなく板金溶接工のロジャー・ダルトリーが率いるスキッフル・バンド、ザ・デトゥアーズに加入した。バンドはその後宣伝担当者の提案によってハイ・ナンバースと名前を変え、彼らはよりモッズ然としたスタイルを取ることになる。彼らはシングル「ズート・スーツ」のリリース後、新たな二人のマネージャー、クリス・スタンプおよびキット・ランバートと契約を結ぶ。これがザ・フーの始まりであった。

トニー・アイオミ(Tony Iommi、1948年2月19日 - )は、イギリスの有名ハード・ロックグループ、ブラック・サバスのギタリスト。ウェスト・ミッドランズ、バーミンガム出身。左利きでレフティギターを使用している。


トニー・アイオミ(2005年)

数多くの有名なフレーズを生み出したリフメイカー、リッチー・ブラックモアは、彼のリフメイカーとしての能力を「シンプルなリフが一番難しい。トニーはそれをわかっていてやっている。」と評している。
彼の右手の中指と薬指は、板金工時代の事故で先端部分が失われている。アイオミは工場で鉄板をプレス係りに送り出す役目であった。その工場を退職するちょうどその日はたまたまプレス工が無断欠勤しており、アイオミがプレス係りと送り出す役を兼務する羽目になった。兼務は大変な上にプレス作業に慣れていなかったため機械のスピードについていけず、彼はあやまってプレス機械に手を入れてしまい、指を切断してしまったそうである。指への事故はギタリストとしてただでさえショックである上に、左利きのため右手指で押弦を行うアイオミには余計致命的であった。しかし彼は、右手の指の先端に洗剤のプラスチック容器を溶かして作ったチップをはめて、そのハンディを克服した。そのハンディを克服するきっかけとなったのは、先の板金工場の監督がアイオミを励ます為にベルギー人ギタリスト、ジャンゴ・ラインハルトのアルバムをアイオミに聞かせたからだそうである。ジャンゴも火災事故で左手の薬指と小指が動かなくなったものの、そのハンディを乗り越えてギタリストとして活躍していた。彼の存在に励まされたアイオミは奮起し、先の指先チップを開発して指先切断事故を見事に克服した。

リー・マック・リトナー(Lee Mack Ritenour、1952年1月11日- )はジャズ・フュージョン界で活躍するギタリストである。カリフォルニア州ハリウッド生まれ。フュージョン全盛期を支えたギタリストを代表する一人である。
1970年代前半より活躍している。ブラジリアン・リズムに影響され、自身のアルバムに取り入れられている物が多い。代表作に「Captain Fingers」が挙げられる。
1990年、ボブ・ジェームス、ネーザン・イースト、ハーヴィー・メイソンと共にフォープレイを結成し、1995年までに3枚のアルバムを発表。しかし、1996年に自身のレーベル「i.e.ミュージック」を新設し、プロデュース業で多忙になったため脱退せざるを得なくなった。後任にはラリー・カールトンが加入した。フォープレイに在籍していた間、ジャズ・ギターの偉人ウェス・モンゴメリーに捧げた、"Wes Bound"を1993年に、1995年にカールトンとの合作、"Larry & Lee"を発表。

2010年12月10日金曜日

Music_John Petrucci_Steve Lukather_Jake E. Lee

ジョン・ペトルーシ(John Petrucci、本名John Peter Petrucci、1967年7月12日 - )はアメリカのバンド、ドリーム・シアターのギタリストで、ミュージシャン、作曲家。
  
                                                         John Petrucci 02.jpg

12歳のときにギターを弾き始め、はじめはレッド・ツェッペリンやブラック・サバスといったバンドのコピーをしていたが、次第に「個性的なギタリストに惹かれていった」(本人の教則ビデオよりの弁)ことにより、メタリカやラッシュやイエス、オジー・オズボーンなどのロックバンドに傾倒していく。ギタリストとしては、偶然にも「スティーヴ」または「アル」と名のつくギタリストに影響されたとしている。スティーヴ・モーズ、スティーヴ・ヴァイ、スティーヴ・ハウ、スティーヴィー・レイ・ヴォーン、アレックス・ライフソン(ラッシュ)、アル・ディ・メオラ、アラン・ホールズワースなどがそれにあたり、またそれ以外ではジェイムズ・ヘットフィールド、エドワード・ヴァン・ヘイレン、ランディ・ローズ、イングヴェイ・マルムスティーン、デヴィッド・ギルモア 、ジョー・サトリアーニ、パコ・デ・ルシアなどに影響を受けているとしている。

スティーヴ・ルカサー(Steve Lukather、本名:Steven Lee Lukather、1957年10月21日生まれ)は、アメリカのミュージシャン(ギタリスト、ボーカリスト、作曲家)。身長174cm

スティーヴ・ルカサー

2008年に解散した、ロックバンド・TOTOの元メンバーである。TOTO結成以前から、現在でもスタジオ・ミュージシャンとして活動しており、ボズ・スキャッグス、オリビア・ニュートン・ジョンのアルバムにも参加。様々なCDで彼のプレイを聴ける。「たとえどんなスタイルの音楽であろうが、スタジオに来れば一発で最高のプレイを録音する」とまでいわれるほど、一流プロデューサーや大物アーティストから、絶大なる人気と信頼を得ているギタリストである。
1957年10月22日、カリフォルニア州・サン・フェルナルド・バレーに生まれる。7歳の頃、父親からアコースティックギターをプレゼントされ、ギターを弾きはじめる。1970年代から、スタジオ・ミュージシャンとして活動を開始。LAを中心として、さまざまな大物アーティストの楽曲に参加する。

 ジェイク・E・リー(Jake E. Lee、本名:Jakey Lou Williams、ジェイキ-・ル-・ウィリアムズ、1957年2月15日 - )は、アメリカ合衆国のギタリスト、作曲家、音楽家である。オジー・オズボーンの元ギタリスト。日本人の母を持つハーフ。
幼少期にピアノのレッスンを受ける。姉の弾くギターにあわせてピアノをプレイするようになる。ジミ・ヘンドリックスを聴いて以後は、ギタリスト志望と成る。高校の様々なバンドでプレイし彼はそのテクニックを1970年代後期のサンデイエゴのミュージックシーンに知らしめた。

2010年12月9日木曜日

Music_Jimmy Page_Keith Richards_Kurt Donald Cobain

ジェームス・パトリック・"ジミー"・ペイジ OBEJimmy Page, 本名James Patrick Page OBE 1944年1月9日 - )は、イギリスのロックギタリスト、作曲家、プロデューサー。 当時の音楽ジャーナリズムからは「1970年代のパガニーニ」と形容され、世界で最も成功したロックバンドの一つであるレッド・ツェッペリンのギタリスト兼リーダー。レコード、ステージなど全般のプロデュースも担当した。イングランドロンドン出身。 ローリング・ストーン誌の2003年8月号のカバーストーリー「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」に於いて第9位。
シカゴで演奏するジミー・ペイジ(1977年)
 1963年頃からアートスクールとの二足の草鞋でセッション・ギタリストとして活躍、数々のレコードに参加する。当初は「クルセイダーズ」などにも参加し、パーマネントなバンドでの活動を志望していたが、体調不良から断念することになる。セッションマン時代は主に師匠格のビッグ・ジム・サリヴァンと行動を共にしており、ビッグ・ジムに対して「リトル・ジム」の愛称で親しまれていた。

キース・リチャーズ(Keith Richards, 1943年12月18日 - )は、イギリスのロックバンド、ローリング・ストーンズのギタリスト。ミック・ジャガー、ブライアン・ジョーンズと共にストーンズを結成した。ジャガー/リチャーズ名義で多くの曲を作曲している。また、ミックと彼はグリマー・ツィンズ名義でプロデュースも行う。身長170cm。
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キース・リチャーズは1943年ケント州ダートフォードで生まれる。ローリング・ストーンズでデビューしたときにはリチャードと名乗っていたが1978年に本名のリチャーズに戻す。
1980年代にはミックとの軋轢が表面化し、ストーンズ解散の危機も迎えたが、それも乗り越え、21世紀を越え、自身還暦を過ぎた現在も、ローリング・ストーンズを「世界最高のロックバンド」として牽引し続けている。

カート・ドナルド・コベイン(Kurt Donald Cobain、1967年2月20日 - 1994年4月5日)は、アメリカ合衆国ワシントン州アバディーン出身の歌手、ギタリスト。イングランド、アイルランド、ドイツ、フランスの血を引く。
1990年代を代表するワシントン州シアトルの伝説的グランジ/オルタナティブ・ロックバンド、ニルヴァーナ (Nirvana) でボーカルとリードギターを担当し、グランジの金字塔的アルバム『ネヴァーマインドNevermind』の成功で一躍ロック・スターの仲間入りを果たすものの、自身の本来の姿とロック・スター的イメージとのギャップに葛藤、ドラッグと精神病に悩まされ、1994年自宅にてショットガンで自殺。27歳没。
1992年のMTV Video Music Awardsにて
1967年2月20日、アイルランドおよびフランス系の自動車整備工ドナルド・リーランド・コベインと、イングランドおよびドイツ系のウェイトレスのウェンディ・フレイデンバーグ夫妻の間に誕生 。ビートルズが大好きで、絵の上手な子供だったという。幸せな幼年期を送っていたが、1975年に両親が離婚したことで大きな精神的衝撃を受ける。その影響からかカートは内向的で、引きこもりがちな少年に変わってしまった。カートはその後も父親に棄てられたという感覚を拭い去ることができなかったという。
離婚後、最初は父の元へ引き取られる。トレーラーハウスの中で、ブラック・サバス、レッド・ツェッペリン、エアロスミスを聴いて育ち、その音楽が自身の音楽に強く影響を与えた、と後に何度もインタヴューで語っている。

2010年12月8日水曜日

Music_Brad Gillis_Kirk Hammett_Stevie Ray Vaughan

ブラッド・ギルス(Brad Gillis、1957年6月15日 - )は、アメリカのロックバンド、ナイト・レンジャーのギタリストである。

8歳の時にギターを手にし、ジミ・ヘンドリックス、ジェフ・ベックと言ったギタリスト達をコピーし、あらゆるロックギターのテクニックを身につけたブラッドは、19歳の時オーディションの末、地元サンフランシスコのファンク・ロック・バンド:ルビコンへ加入する。1978年にアルバム『RUBICON』でデビューを果たすこのバンドには、後にナイト・レンジャーに参加するジャック・ブレイズも在籍していたが、同じくサンフランシスコで活躍していたタワー・オブ・パワーのような音楽性だったこともあって、このアルバムではまだブラッドらしい派手なプレイは聴くことはできなかった。続く2ndアルバム『AMERICA DREAMS』(1979年)ではロック色が強くなっており、ブラッドのギター・パートも格段に増えていたが、アルバムを聴く限りでは、後にトレードマークともなるアーミング・プレイは未だ開拓されていなかったと言える。このルビコンはエアロスミスなどと共にカリフォルニア・ジャム2にも出演した。
カーク・ハメット(Kirk Hammett, 1962年11月18日 - )は、アメリカのヘヴィメタルバンド、メタリカのギタリスト。サンフランシスコ出身。
2007年、ウィーンにて

シン・リジィやUFOの影響でギターを手にし、その後ジョー・サトリアーニに師事する。その後はエクソダスを結成し、1983年にメタリカに加入。その後、現在に至るまでメタリカのリードギターを担当している。ギターは、ESPのシグネイチャー・モデルを主に使用している。
メタリカ以外の音楽活動としては、サンタナのアルバム『オール・ザット・アイ・アム』(2005年)にゲスト参加したほか、スラッシュメタルバンド、エクソダスの発起人としても有名である。
趣味は、古いホラー映画とアニメ、特撮が挙げられ、かなりの数のグッズも所有している。来日公演の際、ファンから「北斗の拳」のフィギュアを貰い、大喜びしている映像がある。彼が使用するESP製のメインギター群の中にも『MUMMY』と呼ばれる古いホラー映画『ミイラ再生』(原題The Mummy 主演ボリス・カーノフ 1932年作品)のペイントを施されたギターなど、彼の趣味嗜好が反映されたカスタムギターが複数存在し、実際にライブやレコーディングで使用している。

スティーヴィー・レイ・ヴォーン(Stevie Ray Vaughan, 1954年10月3日 - 1990年8月27日)は、アメリカのブルース・ギタリスト、作曲家、歌手。本名はStephen Ray Vaughan (スティーヴン・レイ・ヴォーン)。その演奏スタイルはエレクトリック・ブルースの一つの頂点と考えられており、後進の音楽家に巨大な影響を与え続けている。

高校を中退した後、音楽家の道を志してオースティンに向かい、そこでジョニー・ウィンターの目にとまる。その後「ポール・レイ・アンド・ザ・コブラス」というバンドで活動を開始し、1970年代中盤までにシングルを3枚(2枚は「コブラス」名義)発売した。

2010年12月7日火曜日

Music_Zakk Wylde_Paul Gilbert_Steve Stevens

ザック・ワイルド(Zakk Wylde, 本名はZachary Jeffery Philip Wilde、1967年1月14日 - )は、アメリカのギタリスト兼シンガーソングライターである。ブラック・レーベル・ソサイアティのヴォーカリスト兼ギタリストとして活動している。また、オジー・オズボーンのバンドのギタリストとしては、最も長く活動していた人物である。

ザック・ワイルド(2010年8月)
1967年1月14日に、アメリカのニュージャージー州・ベイヨンにて生まれる。14歳の頃に、リーロイ・ライトの下でギターを始める。ストーン・ヘンジなど、幾つかのバンドを経験した後、19歳となった1987年、ジェイク・E・リーの後任のギタリストを探していたオジー・オズボーンのバンドのオーディションにテープを送る。オジーとの初ライブはイギリスの刑務所だったという。
最も尊敬するギタリストはランディ・ローズであるが、オールマン・ブラザーズ・バンドやレーナード・スキナードなど、ブルースやカントリー(サザン・ロック)などからの影響も大きく、ペンタトニック・スケールを基調としたブルース色の強い、豪快な演奏が身上である。

ポール・ギルバート(Paul Gilbert、本名はPaul Brandon Gilbert 1966年11月6日生)はアメリカのギタリスト、ミュージシャン、作曲家。
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1986年にヘヴィメタルバンド「レーサーX」を結成し、地元を中心に活動する。ポールは一躍ギターヒーローとして注目されるようになる。
速弾き、タッピング、ストリングスキッピングなどのハードロック色の強いテクニカルなプレイを得意としている。特にスウィープ・ピッキングを用いた速弾きの技術に定評があり、「光速ギタリスト」の異名をとる。

スティーヴ・スティーヴンス(Steve Stevens、1959年5月5日-)は、アメリカ合衆国のロック・ギタリスト。ビリー・アイドルのサポート・ギタリストとして名を馳せた後、ヴィンス・ニールや氷室京介等、様々なミュージシャンと共演。スタジオ・ミュージシャンとしても活動し、映画『トップガン』のサウンドトラックへの参加でも知られる。

スティーヴ・スティーヴンス(左)&ビリー・アイドル(右) 2003年
ブルックリン出身。7歳でギターを始め、その後プログレッシブ・ロックに傾倒していく。

2010年12月6日月曜日

Music_Larry Carlton_Richie Sambora_Gus G

ラリー・カールトン(Larry Carlton、1948年3月2日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州トーランス出身のジャズ・フュージョン界を代表するギタリスト、作曲家。
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6歳の頃からギターを始め、ハイスクール時代にはブルース・ギタリストのB.B.キングやジャズ・サックス・プレーヤーのジョン・コルトレーンに影響を受け、ジャズを演奏し始める。スリム・エドワーズやジョー・パスに師事を受けた。1966年から1968年までL.A.ハーバー・カレッジ、1968年から1970年をロングビーチ州立大学で音楽を専攻した。サンディエゴで開かれた南カリフォルニア・ビッグ・バンド・コンテストで最優秀ソロイスト賞を受賞し、1968年にファースト・アルバム「With a Little Help from My Friends」をリリース。その後もソロでの経歴を重ね、1971年から1976年までジャズ・ロックグループ、ザ・クルセイダーズに参加する。1977年にはワーナー・ブラザーズ・レコードと契約し、1978年から1984年に掛けて、6枚のソロ・アルバムを制作した。その楽曲と演奏に対し、4つのグラミー賞を受賞している。1970年代には、ロサンゼルスでセッション・ミュージシャンとしても活躍し、スティーリー・ダンやジョニ・ミッチェルも含む多数のアルバムに参加している。ローリング・ストーン誌のベスト・ギター・ソロに関する投票では、"Kid Charlemagne"(スティーリー・ダンのアルバム、The Royal Scamに収録)でのプレイが第3位に選ばれている。

リッチー・サンボラ(Richie Sambora, 1959年7月11日 - )はアメリカ合衆国ニュージャージー州出身のミュージシャン。ロックバンド、ボン・ジョヴィのギタリスト。

2009年 リッチー・サンボラ
ソロとしては1991年、アルバム『ストレンジャー・イン・ディス・タウン』でデビュー。ボン・ジョヴィのライヴにおけるコーラスの上手さには定評があったが、ここで改めてソウルフルな歌を披露した。「Mr.Bluesman」という曲は、彼が尊敬してやまないエリック・クラプトンに憧れてギタリストを夢見る少年(リッチー本人)のことを歌っているが、エリック・クラプトン本人がその曲に感動し、ゲストミュージシャンとして参加している。
個人的な日本との繋がりでは、1997年、反町隆史のアーティストデビューシングル「Forever」に参加。同曲は、反町隆史が主演した、ビーチボーイズの主題歌として使用され、フジテレビ系列で放映された。

ガス・G(Gus G / 本名Kostas Karamitroudis,1980年9月12日 - )は、ギリシャ出身のギタリスト。若手の技巧派ギタリストとして注目されている。

2007年8月18日撮影
2001年、ドイツのメロディックスピードメタルバンド、ミスティック・プロフェシーのメンバーとしてメジャーシーンに登場する。その後、ナイトレイジやドリーム・イーヴルのメンバーを掛け持ちし、「世界一多忙なギタリスト」と呼ばれていた。 現在は自らがリーダーを務めるバンド、ファイアーウインドの活動に専念するため、他のバンドから全て脱退している。

2010年12月4日土曜日

Music_Marty Friedman_John Frusciante_Lenny Kravitz


マーティン・"マーティ"・アダム・フリードマン(Martin "Marty" Adam Friedman、1962年12月8日 - )はアメリカ・メリーランド州ローレル(ワシントンD.C.近郊)出身のギタリスト、音楽評論家、タレント。
マーティ・フリードマン
流暢な日本語を話すことでも知られ、アリゾナ州で開催された日本語弁論大会で2位を獲得したこともある。日本語での口癖は「いいじゃん!」「アゲアゲじゃん!」
現在は日本に拠点を置き活動。
イングヴェイ・マルムスティーン、ポール・ギルバート、トニー・マカパインらと共に速弾きブームの牽引役として一般に知られる。
1990年にはメガデスに加入する。メガデスでは4枚目のアルバム「ラスト・イン・ピース」から8枚目のアルバム「リスク」まで参加し、バンドの全盛期を支える。しかし1990年代中盤より他のヘヴィメタルバンドが台頭してきたため、メガデスのメンバー間でバンドの方向性に関する論争が発生。この時Friedmanは「ポップスならポップスのアルバム、ヘヴィメタルなら信じられないくらいヘヴィなアルバムを作りたい。中途半端なのは一番嫌だ」と主張した。しかしアルバムに採用された曲は「ポップスでもヘヴィメタルでもない中途半端な曲」ばかりとなってしまい、「ヘヴィメタルの代表としてメガデスと言う怖い名前があるのに、何故そんな妥協をしなくちゃならない? とずっと主張し続けてたんだけど受け入れられなかった。だから辞めた」と語っている。

ジョン・フルシアンテ(John Anthony Frusciante 1970年3月5日-)は、アメリカ合衆国のギタリスト、ボーカリスト。レッド・ホット・チリ・ペッパーズのメンバーだったことで知られる。現在は、ソロ・アーティストとして活動しており、2010年時点でソロアルバムを10枚発表している。フリーやマーズ・ヴォルタ、フガジのメンバーなど、様々な友人ミュージシャンと音源を残さない急造バンドを作って活動することも多い(唯一、ジョシュ・クリングホッファーらと組んだアタクシアのみ、ソロの一環として作品を残している)。
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ニューヨークのクイーンズ生まれ。12歳の頃にカリフォルニア州に引っ越している。両親は共にミュージシャンであった。母のゲイルはレッド・ホット・チリ・ペッパーズの曲“アンダー・ザ・ブリッジ”で歌声を披露している。

レニー・クラヴィッツ(Lenny Kravitz、1964年5月26日 -)はアメリカ合衆国のミュージシャン。本名レナード・アルバート・クラヴィッツ。
レニー・クラヴィッツ(2005年)

1964年、ニューヨークに生まれる。父親は東欧系ユダヤ人の血を引きNBCテレビのプロデューサー、母親はバハマ出身で、後に女優となるロキシー・ローカー  。1974年に母親の仕事の都合で一家はロサンゼルスに移住、その後ビバリーヒルズ高校 (Beverly Hills High School) に入学する(同級生にはスラッシュやマリア・マッキーがいた)。当時からすでに音楽的才能を発揮していたレニーは、やがてセッションミュージシャンを志すようになり、高校を中退。

2010年12月3日金曜日

Music_Ritchie Blackmore_Dimebag Darrell_Randy Rhoads

リッチー・ブラックモアRitchie Blackmore 本名:Rihard Hugh Blackmore(リチャード・ヒュー・ブラックモア) ,1945年4月14日 - )は、イギリス出身のギタリスト。身長179cm。
2009年シカゴにて
ミドル・ネームがハロルド(Harold)と表記される事も多いが、誤りである。 ディープ・パープルの元メンバーとして有名。その後、別のハード・ロック・バンド、レインボーを率いた。
現在はフォーク・ロック・プロジェクト、ブラックモアズ・ナイトで活動している。 1997年、婚約者兼ボーカルのキャンディス・ナイトと共にブラックモアズ・ナイトを結成。(その後結婚している。)
彼のルーツの一つである、リュートなどを主体としたイギリス中世音楽を現代風にアレンジした吟遊詩人的な音楽で、それまでのハードロックから一転しアコースティック・ギターによるフィンガリング奏法、アルペジオを多用した独創的なもので、かつ聴きやすいと評されている。

ダイムバッグ・ダレル(Dimebag Darrell, 本名:Darrell Lance Abbott, 1966年8月20日 - 2004年12月8日)は元パンテラで、元ダメージプランのリードギタリスト。
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アメリカ・テキサス州のアーリントン出身。
在籍した両バンドのドラマー、ヴィニー・ポールは兄である。1994年に発売されたパンテラの「ファー・ビヨンド・ドリヴン」以降、「ダイアモンド・ダレル」から「ダイムバッグ・ダレル」に改名した。
ちなみに「ダイムバッグ」は「10ドル相当のマリファナ」という意味で遊びの入った名前である。
彼の父親はカントリーの作曲家で、テキサスのパンテゴという町にレコーディング・スタジオを所有していた。そしてそこで彼は多くのブルース系ギタリストの演奏を聴き、その影響は多くのパンテラの曲に反映されている。12歳の時にギターを弾き始め、若くして州全体のギター・コンテストで7回ほど賞を受賞する。16歳の頃になると「コンテスト荒らし」の異名を取るようになり、最終的には主催者側からコンテストへの出場を禁止され、その代わりに審査員を頼まれたという経緯から、当時からギターの上手さは群を抜いていたと言える。
これらのコンテストで獲得した景品の中には後にパンテラでトレードマークとなる稲妻ペイントのディーン製ギター、ランドールのアンプ、ジャクソンやESPのギター等があった。

ランディ・ローズ(Randy Rhoads、本名ランドール・ウィリアム・ローズ、男性、1956年12月6日 - 1982年3月19日)は、ギタリスト。クワイエット・ライオットおよびオジー・オズボーンのバンドのギタリストであったことで知られる。
1982年、オジー・オズボーンの全米ツアー中に遊覧飛行で乗った軽飛行機の墜落事故により25歳で生涯を終えた。
1973~1975年頃、クワイエット・ライオットを結成するまでの間、幾つかのローカルバンドで活動する傍ら、母親の音楽学校でギターの講師を勤める事になる。ランディの生徒の中には後にオジー・オズボーンバンドに加入するジョー・ホームズの姿もあった。ランディは後に「生徒に教えることで逆に多くのことを学んだ」と、振り返っている。

2010年12月1日水曜日

Music_David Lee Roth_STEVE HACHETT BLUES WITH FEELING_Steve Morse

デイヴィッド・リー・ロス(David Lee Roth, 1954年10月10日 - )はアメリカのミュージシャン(ボーカリスト・作詞・作曲家)、音楽家。ハードロックバンド、ヴァン・ヘイレンのボーカリストである。インディアナ州ブルーミントン生まれ。
デイヴィッド・リー・ロス(2007年)
1970年代RED BALL JETSからヴァン・ヘイレンに引き抜かれる。デイヴはPA機材を兄弟のバンドに貸していたため、兄弟がレンタル料を惜しんでの引き抜きとも言われるが加入後もきっちり兄弟にレンタル料を請求していた。
1985年 7月頃、ソロ活動をしたいという理由でヴァン・ヘイレンを脱退。
2007年2月2日 ヴァン・ヘイレン公式サイトにて、デイヴのヴァン・ヘイレン復帰を発表。

スティーヴ・ハケット(Steve Hackett、本名:Stephen Richard Hackett、1950年2月12日 -)は、イギリス・ロンドン出身のギタリスト。
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1970年、クワイエット・ワールド(Quiet World)でデビュー。その直後、アンソニー・フィリップスに替わってジェネシスに加入。同バンドのサード・アルバム(Nursery Cryme 1971年)から1977年のライヴ・アルバム(Seconds Out)まで参加し、以降は主にソロ・アーティストとして活動している。ソロ活動では実弟であるジョン・ハケット(フルート奏者)との共演も多い。
その後、1986年にスティーヴ・ハウと結成したGTRや、1996年にロンドン・フィル・オーケストラやビル・ブラッフォードらと共演し、ジェネシスの音楽を再構築したアルバム(Genesis Revisited)を制作したのをきっかけに、ジョン・ウェットン、イアン・マクドナルド、チェスター・トンプソンらとバンドを組み、ジェネシス、キング・クリムゾンの音楽を再現したライヴ・ツアーを行った事などが、目立った活動として知られている。

スティーヴ・モーズ(Steve Morse, 1954年7月28日 - ) はアメリカ合衆国出身のロック・ギタリスト。 オハイオ州ハミルトン生まれ。家族とともにテネシー州に引っ越す。高校時代に最初のバンド、ディキシー・グリットを結成。その後フロリダ州・マイアミ音楽大学にてクラシックとジャズ・ギターを学ぶ。
スティーヴ・モーズ(2005年)
学友にはパット・メセニー、ブルース・ホーンズビー、ジャコ・パストリアスがいた。クラスメートと共に1974年、ジャズ・ロック・バンド、ディキシー・ドレッグスを結成。1975年、自主制作アルバム「グレート・スペクタキュラー」を発表し、カプリコーン・レコードから1978年にアルバム「フリー・フォール」を発売する。バンド名は一時的に「ドレッグス」に改名していた。
2003年にはディープ・パープルの人脈関係にあるボブ・ディズリーのグループ、リヴィング・ラウドに参加、2006年にはイアン・ギランのアルバム「Gillan's Inn」でグー・グー・ドールズのジョン・レズニックと共演している。